由来
天柱山安国頼久寺 正面
天柱山安国頼久寺は、臨済宗永源寺派に属し、その草創は不詳であるが、暦応2年(北朝年号1339年)足利尊氏が再興して備中の安国寺と号した。
当時、中国から帰朝して備中備後路を巡錫中の寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とした。
後に永正年間(1504年)備中松山城主、上野頼久公は寺観を一新した。
頼久公は、大永元年に逝去したので、頼久の二字を加えて安国頼久寺と寺号を改称した。平生はただ頼久寺と呼んでいる。
尚、当山の御本尊は聖観世音菩薩で、備中西国第5番の札所であり、昭和63年3月に開創された瀬戸内観音霊場第13番の札所でもある。
暦応2年12月沙彌西念勧進と刻された石灯篭(高梁市指定文化財)
寂室元光禅師(1290年~1367年)
寂室元光禅師は南北朝時代の臨済宗の僧で、鎌倉時代末期、正応3年美作国高田(現在の岡山県勝山町)のお生まれである。
寂室禅師が13歳の時、京都東福寺の無為昭元禅師のもとで出家得度する。
後、京を離れて、鎌倉建長寺の約翁徳倹禅師の元で修行に励んだ。
寂室禅師は31歳の時中国に渡り、中峰、古林、清拙等の善知識にまみえ、もっとも多くその影響を受けたのは、天目山に隠棲していた中峰明本禅師であった。
寂室禅師はこの師と共に、この幽寂な山中の修行を好み励んだ。
この時の逸話に、中峰の元に着いた時、日はすでに暮れて寺の前庭には雪が積もっていた。雪中より来意を告げると、やがて現れた中峰禅師は、寂室禅師の肘に「明日来也」の4字を書いた。
寂室禅師はすぐに手洗器に走ってこの文字を消されたと伝えられている。
「寂室」の名前は中峰から与えられた法号である。
寂室禅師が中国から帰朝したのは37歳の嘉暦元年(1326年)である。
帰朝後、京都へは帰らず、およそ25年間にわたって中国地方を巡錫した。
寂室元光禅師頂相(頼久寺蔵)
この頃寂室禅師は西祖寺、明禅寺、安国寺、慈広寺、菩提寺、美作の田原村などに滞在し、吉備中山、藤原成親の墓、備前金剛寺、八塔寺、金山寺など県内を巡った。
観応元年(1350年)足利義詮から相模長勝寺、豊後万寿寺などの住職に招かれたが、これを断り、その後、約10年にわたって美濃、攝津、山城、近江、伊勢、尾張、甲斐、上野などの国々を遍歴した。
寂室禅師71歳の時、近江守護佐々木氏頼の懇請により、永源寺を開かれた。
この頃も京都天竜寺、鎌倉建長寺などの住職に招聘されたが、中峰禅師の思想を深く了知された寂室禅師は諸山大寺に出世することを固辞されて、山水明媚な地に詩を賦し、和歌を楽しまれ、得入の禅法を有縁の方々に説かれて教化に専念されていた。
貞治6年(1367年)9月1日、78歳で示寂された。
この頂相(肖像画)は、寂室禅師の弟子霊仲禅英禅師(頼久寺2世)に与えたもので、上部に寂室禅師自筆の賛を書いている。
寂室禅師の詩(一部)
- 名利を求めず貧を憂えず
- 隠処山深うして俗塵を遠ざく
- 歳晩天寒し誰れか是れ友
- 梅花月を帯びて一枝新たなり
- 風飛泉をかいて冷声を送る
- 前峰月のぼって竹窓明らかなり
- 老来殊に覚ゆ山中の好きことを
- 死して巌根に在らば骨また清し