遠州学

平成14年11月26日(火)午後7時より、高梁商工会議所に於いて、
茶道遠州流十三世家元、小堀宗実宗匠より「茶の湯の精神」と題してご講演をしていただきました。
 

 小堀遠州の世界2002(高梁商工会議所主催・高梁商工会議所青年部(松本圭司会長)主管、高梁地域づくり交流会共催)の第3段として、11月26日(火)午後7時から、高梁商工会館で開催した「遠州学」。今年度講師にお招きした、遠州茶道宗家十三世家元小堀宗実氏による、「茶の湯の精神」をテーマにお話しいただいた、講演要旨を紹介いたします。
 小堀宗実家元には「茶の湯の精神を一言で言えば、それは『もてなしの心』だ。そのもてなしの中には、精神性の高いもの、芸術性を感じるもの、遊戯的な楽しさなど色々な面がある。心を清められたり、頭、体を使ったり、見て楽しむ部分があって初めてもてなしにつながる。
 戦国時代、千利休の精神性の強い茶がわびの茶で、無駄をはぶき余分なものを削った究極がわび・さびの世界。茶碗も素直な形が好まれた。そうした中で利休の弟子、古田織部は芸術性を強く出し、自分の造形を作った。不安定な時代は自分を強調することで生き残っていたが、戦国の終りから、江戸時代の安定した時代に入ると、自己を強調することは好まれなくなった。そして、流祖遠州は『綺麗さび』と言った。遠州は色んな嗜好を取り入れて調整し、大名、公家、僧侶をはじめ色々な人に楽しんでもらおうとした。茶碗にしても国内はもとよりアジア、ヨーロッパのものまで集めた。ただ玉石混合で使ったのでなく、この掛物にはこの花入れをと、遠州の美学、独特のセンスで調和していった。
遠州のもてなしの考え方は、もてなす側が材料を沢山用意して、お客に感じてもらうことが基本。相手の気持ちがあってはじめて成り立つもので、おもてなしの心を最初に展開したのが遠州のお茶だったと思う。
 遠州の時代、茶の湯によって色々な文化人が交流し、それが一般に広がっていった。その中で、作法、点前が生まれ、形にこだわる面も出てくるようになった。日本の伝統文化は何回も形骸化という壁に直面するが、その時代の空気、求めているものを取り入れる人がいたので何百年も続いている。
 昨今の日本の状態は、これが日本だろうか…と驚く出来事が多い。これは日本人がつい最近まで持っていた自分以外の人がいて自分があるという精神が希薄になってきていると言う事だろう。なぜ茶の湯を勉強しましょうと言うかといえば、茶は1人では成り立たないもの、自分以外に人がいると言う事を知らしめてくれるものだからだ。
 今、遠州流では、3〜5歳の、小さな子供にもお茶を体験してもらっている。その時、子供たちに必ず『お先にいただきます』『けっこうです』『ごちそうさま』と言
う事を教えている。お茶を点ててくれた方だけでなく、茶碗を作った人、席を掃除してくれた人達など全てに感謝する心を育み、自分以外に誰かがいるという事を認識させることが目的だからだ。最近希薄になった関係を自然に感じさせることができるのが茶道だと思う。
 茶の湯の3条件を紹介すると、第1点は『人と人』の関係。茶席は、お客がいて初めて成り立ち、亭主とお客との間合いや息使いを感じることができる人と人との関係が基本だ。第2点が『人と物』の関係。道具を美術的、芸術的価値としてみるだけでなく、400年前の遠州が実際使っていた茶碗を、時代を超え現代の私たちも共有できる。触れてみてそうした世界に自分も入っていけるのも茶の湯の醍醐味だ。第3点は『物と物』の関係。茶席では色々な道具を使うので、道具と道具が調和が取れていることが基本。立派な道具を並べても個性がぶつかり合って生きてこない場合もあ
る。お互いを引き立たせる道具を使うことが重要だ。
 茶道は生活文化と言われる。それは、日常生活そのものが茶道という事ではなく、茶席などの非日常の世界から色々な面を体験し、知識を得る。その精神を生活に活かして初めて生活文化と言える。茶の湯の精神を日常に活かして生活することが重要だと思う」とお話しいただきました。




 講演会に先立って、頼久寺で吉備国際大学茶道部が、家元にお茶を一服差し上げた。
お点前をした茶道部々長は、大変緊張していました。